カーテンが開け放たれた パノラマサイズの窓から 少しだけ上を見やると、 にわかに空が掻き曇っていた。 さっきまでは晴れていたけど、 ヴェール状の薄い雲が、 微かな黄味を帯びて漂い始めていた。 まるで天使の舞う様 それは 眩い月がそこに隠れているからだった 時間にして5秒って所だろうか? それ以上はもたないと本能で思った、 だからすぐさまその腕から仰け反った。 言っていい?少しマシに なったら、言おうと思って・・ どんなに芝居の下手な女優でも こんなぎこちない棒読みはしないだろう。 とても顔は見られないので、 かかしの頭の上、窓の外の空を見ている。 風が強いのか、揺れるように 雲が流れていく。だが途切れはしない。 不自然な体勢で、彼に乗っかってはいる。 でも今すぐ容易く逃れるのは可能だろう。 痛みで力が入らないのだ。 私の顔も酷いほど歪んでいる。 想像すると耐えられない。貧血すら催してきた。 あかん、 言ったら帰さない そう言ったのか、多分言ったと 思うけれど、語尾はそのまま 「イタタ」に繋がった。 かかしは良く関西弁を真似する。 例えばその相手がこちら方面だと 調子づいてどんどん出てくるのだけど ちょっと、イントネーションが違う。 それを本人も分かって言っている。 何とか、この場を回避しようとしていると 分かった。 彼の優しさなのだ。これは。 同じ分量の優しさで撥ね退ける呪文があればどうか、誰か教えてください きっと一生、自力では見つけ出せないから 米に行きます・・・・ 大丈夫だよね 私は、大丈夫なんだよ? 何でいつも心と反対の事を 相手に伝えてしまうんだろう。 「大丈夫じゃないよね? 私も、大丈夫じゃないよ。」 本当はそう思っている癖に。 誰もがその後の展開に ついて想像がつくんじゃないだろうか かかしは意味を探っているのかもしくは 海外に何泊か行くという意味にとったのか、 顔色を全然変えなかった。うぃすっと曖昧な返事をした。 答えは「大丈夫」と顔が物語っていた。 その視線は私の口か鼻の辺りにあって、 少しウェーブしたクセのある髪が おでこから耳の下まで流れている。 キリストやジョンレノンもかつて こんな髪質だったのだろうか? 触ってみる。少し堅めで多く、でも柔らかい。 やっぱりこの長い黒髪は 彼そのもの。どんな髪型より、似合っている。 少し俯くと 私の茶色味を持った痛んだ髪と 重なって、グラデーションになる。 細くて少ないので、二つは 全く異質の繊維のように見える。 その下に高い鼻と唇が、 胸元に埋まっている。 瞳は閉じている様に見える。 もう十分だ。これ以上何を語ったら 上手くいくと言うのか。そう思った。 いずれにしても正直に話せば、 離れられなくなって、仕事を諦めるか 軽く言い合いになって、揉めて、終わるか どちらかだ。 そうこうしている間にも、 私の細腕は手の平でしっかり捕まれて、 今度は向こうが頭を触ってきた。 でも、私の様子がおかしいことには 痛みの中でも気が付いてるようで それ以上何もしてはこない。 以前からそうなのだ。 決して感情に任せて無理強いは、しない。 私という一女子に限っての話だけど・・。 ダメだ、こんな猜疑に 心を奪われている時点で、 関係性が破綻してきている。 かかしが誰と居ようと、何をしようと 平気でいられると自分を信じて、 また実際あった時も挫けなかったから 一緒に居られた。 今の私は嫉妬と独占欲でいっぱい。 そんな自分は嫌だ。 そんな気分にさせるかかしとも 一緒にはいられない。 どんどん 聞いてしまいそうだった。 遠くに行って欲しくないですか? 側に居ろって強く言って欲しい 一人の夜は辛くないですか? いつも一緒に、朝を迎えたい 他の誰かより、 私の事を好きですか? 決して口を突いては出ない、 そんな言葉達。 臆病で情けない所は ずっと変わっていない。 かかしから沢山の言葉を もらっても尚のこと。 こんなに感謝しているのに。 不安にばかりなるなんて本当に 情けなくて、涙が出てしまった。 泣いたのは2年振りだろうか。 もちろん、今 わざと泣いているわけじゃない。 それとおいおい泣いてるわけでもない。 ぽろっと一滴こぼれたくらいの。 けど、わざと泣かずに今まで来た感はある。 泣くのはズルイから。 極限まで我慢しないとダメな代物だから。 でないと相手がどんな嫌な 気持ちになるか知っている。 かかしの表情は十分に曇った。 でもすぐ三日月目の表情になって うつむき加減に苦笑いして、 泣いている理由を聞いてくれようとする。 こんな優しさに抗う方がよっぽど難しい。 どこが痛いのかよく 分からないけど心配だから 早く病院行こう そう口走ると駄々っ子みたいに バタバタと涙が落ちてきた。 何を言っているのか。 確かに心配はしているけど、 泣いた理由はそうじゃないじゃないか。 離れてしまう寂しさで 自分勝手に泣いたくせに。 思いながらも涙は止まらない。 止まらないけど、立ち上がって 涙で喉を痙攣しながら ベッドサイドに備え付けられたメモに、 近くの付属病院を書き出す。 そこに携帯に登録している電話番号を足す。 神戸は地元だから、よく知っている。 役に立つか分からないけど、 夜間も開いているはずだ。 早く診察してもらい、 楽になってもらいたい。それから かかしは一人の身じゃない。 何かあればこの事業に 係わっている全ての人に影響がある。 全てを背負ってヘヴィーな道をずっと 歩いてるからこそ、救急車は呼べないのだ。 すると、今度は後ろでかかしが 立ち上がっていて、ちょっと慌てて 分かったから落ち着けと笑った。 子供のように嗚咽で痙攣を繰り返している 私の背中を抱きしめて、叩いてくれた。 分かった 薬効いてるから、大丈夫。明日 病院行くから。違う話しよう 服が少し汗ばんでいるものの、 確かに体温は消炎剤のお陰で 下がっていて、一刻を争うようでは なくなった。すこし安堵した。 かかしは自分に正直だから、 こうゆうシチュエーションで 痩せ我慢したりしないだろう。 油断はできないものの、良かった。 それと何よりも、かかしが ここから離れたくないと思っている事と 私に出て行って欲しくないと思って居る事が 鈍な私にも分かったから。 二人とも横のベッドに座る。 かかしは間もなく寝転がった。 そうだ、痛くないわけがない。 私は座ったまま、脇腹の辺りを さすってみた。何の効力もないだろうけれど。 静かだ。外は完全に曇り空で 音は聞こえないけど雨が降っている かもしれない。ただ暗闇が続いている。 他愛もない話を、した。 最近あった事、撮影で行った所、 遊んだ場所、遊んだ人、探し回った服、 靴、鞄。探し回った本、貰ったCDやDVD。 いつ以来だろう。こんなに楽しく話したのは。 まるで友達や家族みたいに、 何も考えず、つれづれに語った。 本当はこれが幸せなんじゃないだろうか。 たわいもない、平生な会話と空気。 多くのツアーや撮影やレコーディングで 失われていた空間。空気。時間。 多くのレポートや原稿や取材や 移動、打ち合わせや接待で無くなった日常。 もし私が 貴方がどんな高嶺と分かっていても 諦めず待っている 松井ゆき子のような存在なら、 もし彼が バリバリ忙しく働くキャリア女の為に 自分のライフスタイルをきっぱり変えた 一伊音のような考えの持ち主なら、 この恋愛は上手くいったんだろうか? 答えはnoだろう。 それなら付き合ってはいない。 惹かれてもいない。 視界にすら入らなかった。 話出してから10分か20分、 ココへ着てから1時間かそれ以上か 経った頃に、アメリカへどの位行くのか 訊ねられた。勿論何の気もなく。 私は、正直に答えた。 分からないと。 仕事だから。 数年かも知れないし、 上手く行けば数十年かも 知れない。 かかしの顔をはっきりと 見つめて、冷静そのもので伝えた。 冗談じゃない事は 顔つきから分かったと思う。 分からない、といった瞬間から 脳のどこかで こうゆう展開も万一に、 予測していたのか定かじゃないけど 恐い顔をしはじめた。 ずっと、その顔で私を見ていた。 それと言うと、初めてじゃない。 kartで見た あの、目つき。 恐くは、ない。 じっと、考えているんだと 今では分かったから。 上手く行けば、という その言葉端に かかしはまた表情を変えた。 今度は 理解足らずのインタビュアーに 受け答えする時の、 話したくないのに言葉を要求された 時の、どこか嘲笑気味な仕事の顔。 数十年、と言う言葉に ため息をついて、 何て表現したらいいのか、 痛そうで眩しい時の様な 目の細め方をした。それから 帰らないわけじゃないだろ? と言った。 それは年に一度も 帰らないわけじゃないという意味か、 二度と日本に帰らないと いう訳ではないという意味か 分からなかった。 とても面倒臭そうに、そんな 曖昧な言葉を言ったので 返事できなかった。 実際、面倒臭かったと思う。 かかしにとって大事な局面で、 支えも必要な時期だった。 なのに、私は自ら 一抜けてしまうつもりなのだから。 これほど取り扱いに面倒臭いものはない。 どちらからも 別れるとかこれからどうするとか、 以降に言葉はなかった。 それが実質的な終わりを意味している。 お互い無言で、 心の中で何かを考えていた。 かかしは最後にこういった いつも俺の計画は 聞こうとしないのな 私は最後にこういった ごめんね。ごめんなさい。 ちゃんと、病院へ行ってね。 無論私のほうはボロボロで まともに告げられた記憶がない。 似た者同士なのだ。 向かうベクトルは違うけれど、 かかしは愛を求めて、求め続けて止まない。 いくらもらってもまだ足りない。 そうやって随所で愛を蓄えて歩いている。 かかし側の別れた要因をここで挙げる。 やはり、単純に愛を求めると 心が移いやすい。12月頃から 気になっている人が居るのは知っていた。 そんな事を教えてくれる 不親切な人が居るのも要因の事実。 私は愛を捧げても捧げても 足りない。もっと愛したい。 だから相手が苦しくなって 自滅してしまう事すらある。 だから常に愛を受け取れない、常に愛を与えられない という環境にさらされるこの先は辛酸でしかなかった。 本当は心配で心配で、 一晩中隣でちゃんと眠れるか 見つめていたかった。 今晩、また悪くなったら 私が担いで病院に連れて行く。 鎮痛剤は渡してきたけど、 それで果たして乗り切れる病気なのだろうか? なぜ、こんな時に、この場所で 別れなければならなかったのだろう。 外に出ると小雨が降り出していた。 傘なんて別にいらない。 振り返って、 高層のホテルを見上げた。 19階はどこにあるかは分からない。 恐い。 悲しい。 時間は8時47分 泣いた。 涙腺がおかしくなった位 泣いた。 まだまだ身体に涙が たくさん溜まっていた。 泣いた。 雨が少し大粒になってきても 涙が止まらない。動けない。 上を見つめたまま、泣いた。 ホテルの窓から漏れる黄色い電光、 点いてない部屋の真っ暗な窓、 雨の粒、新幹線の音。 横を通り過ぎる無関心な人並み。 次第にずぶ濡れになって、 シャツが張り付いてきて、 力が入らなくなって 路肩の縁石に座り込んで、 泣いて、ただずっと見上げていた。 つづく トップ