ひと月という期間を こんなに長く感じたことはない 4月の末頃から 仕事の波が押し寄せて 入稿が立て続けに重なって 捌けないんじゃないかと不安になりながら 仕事に明け暮れて、 京都と大阪を行ったり来たりで とんでもないくらい忙しくて 何も考える暇すらなかった。 なかったのに、 頭の中は混沌としていた 酒を煽る暇もなく、 ハコで管をまくことすらできず ハルキ達にもまる1ヶ月会っていなかった でも、 しょっちゅう電話はくれた。 たいがいこちらは留守電だったけど 録音には 一日のしめくくりみたいに報告が溜まっていた 5月がやってきて 街に早くも 暑さと湿っぽさが 運ばれてきた頃、 携帯にメールが届いた。 連絡しないでごめんなさい それとありがとう 春君とは仲直りしたよ という内容だった。 送り主は "沙耶"という、 初詣に一緒に行った、 「掃き溜めに鶴」 ハルキの元彼女である。 仲直りしたというのは 今また付き合っているということだろうか。 ハルキからは一言も聞いてなかったので 肩透しをくらったような気持ちがしたけど 素直に嬉しいことだった。 しかし、「ありがとう」の意味は分からなかった メールを返したけど、それについて返事はなかった 月も半ば、 5月の18日に 休みを取った。 会社は労働基準法というものを 知らないのかというくらい人を働かせる こちらから申請しなければ 2週間くらいは平気で休みをくれない。 それでも弱音は吐けなかった 色んな事が私の 頼りなくなりかけた 背中を押していた。 今、前進することをやめると 自分が壊れると思った。 暇があれば、すぐ考えてしまう。 胸を締めあげるように 喉元まで込み上げてくる 感情を、抑えることができなくなる。 いつだったろうか 初めて誰かを好きになった時に似ている。 似ているけど違った 人生の中で こんなに自分が自分でなくなったのは 他の誰かでは代用できない、 したくもないと思ったのは 初めてだった。 傷付いても、拒否されても この思いは冷める所がなかった 帰り道、夜空に浮かぶ月を見上げると 心だけがすぐ あの時計台の元へ飛んでいこうとした。 小さな星を見つけると 絶対手に入らないその存在に ただただ胸が締めつけられた。 会いたい。 一生かかっても忘れられない。 一ヶ月がこんなに長いのなら 一生はどれだけだろう。 会えないなら生きていたくない。 自分の内の自分が奇妙だった それでも一生懸命、想い続けている 分身を閉じ込めてしまいたかった だから仕事に頼るしかなかった。 とは言え、やりがいのある仕事だし 逃げる暇も与えられなかったのだから それが結果救いになったわけだけど。 18日、 いつもの習慣で朝7時に目が覚めた。 何となく、起き立ちから 体が緊張している。 休日のうちに どうしてもしておきたいことがあった。 とりあえず身支度をして、 洗濯を始め、 まず現在は寝るためにしか 使ってないような部屋を掃除した。 ちらかりはしてないが ホコリが必然的に溜まっていた。 朝食を取り、 久しぶりのゆったりした 時間を味わうと 時計はもう10時を指していた いつまでも 引き延ばしていても しょうがないと思い、 それでも 携帯を取り上げては降ろし、 降ろしてはストラップを掴んで 何度も躊躇して やっとダイヤルに手をかけた 上司と接する時とは違う 緊張感が 背中に走っている。 コール音はカウントダウンみたいで 心臓に悪かった。 いつぞ相手が私にかけてきた時は こんな気持ちじゃなかったんだろうと 想像すると ちょっと悔しかった。 プツリ、と音がした 繋がった合図の音に口元が震える ・・・・ 何の応答もない。 緊張感が頂点にあるので こっちからはなかなか話せなかった。 秒くらい、経ったところで いたずら電話だと思われたらまずいので ようやくもしもしと問いかけてみた 「・・・・ぅ・・?」 この様子は どう考えても 電話で起こした、というパターンで 一瞬、血の気が引いた 一般的に考えれば 平日の昼前といえば皆起きているけど もちろん寝ている人だっている。 特殊な職業なら特に、だ しばらくするとゴロン、というか ゴトンと音がして 寝起きの声で誰?と聞かれ すかさず答える。 頼むから怒らないで、と 内心で怯えた すると あ・・と少しましな声が聞こえて うーんと低く唸りながら 背伸びしているような感じで ちょっと待って、と言った 低くだるい、甘いような 電話の向こうの音色に 心が揺るがされる。 思い出しそうで首を振った それから3分くらい待った。 電話の向こうから水の音がして 消えると足音が聞こえて 何か着火するような擦り音がした 「・・・はーよ」 息を吐きながらそう言う。 さっきのは煙草に 火をつけた音だったようだ。 何度もあくびをしているので 思わず2回謝った。 ちょっと笑ったような、 でもまだ眠りの中みたいな 曖昧な返事が返ってくる。 しばらくこちらから 一方的に話しかけていた。 何をどう言っていいのか分からず 内容はちっとも覚えていない。 エンジは笑いとも返事ともつかない 妙な呼応をして、時々 シーツのすれる音がした 酔ってる時に、 俺と話すのが好きだね と不意に、まともな返答が 返ってきて驚いた。 酔っている?この時間帯に? だとすれば、まさに朝帰りだ。 寝ついた所に 電話をかけたということだろうか すごく気まずい気持ちが襲った。 言いたいことは言えてないけど 電話を切ろうかと思った なのにエンジは 今度は自分から話し出した。 昨晩の酒の量とか、 何を歌ったとか。 こちらの話を切り出せず、 聞く側に回ってしまった。 でも正直嬉しかった 本当は眠いのに、こうして切らずに いつもの様子で話してくれることが。 いつもの様子。 そうだ、いつもの「酔った」エンジ。 大阪で、初めて 話しかけてくれた時は 本物の泥酔状態だった。 目がにやけるように細くなって 顔を真っ赤にしていた。 2回目に、路上で ばったり会った時は 結構シラフなようだった。 その時にかかしの事で助けてもらった。 3回目は、 なんばで。城の前で。家で。 あの時はどう考えても酔っていなかった。 4回目はついこないだの事 自分で酔っていると言っていた。 羅列も回ってなかったし。 酔ったエンジと話すのが好き? その言葉がやけに引っかかった。 何故、そう分かるのだろう。 酔った時に、あの泥酔状態で 私と話したことを。どうして? 疑問は頭に波紋をどんどん広げ、 絶対覚えていないと思い込んでいた 思考の壁がばらりと崩れた 思わず、聞いた。 初めて会った時の私を覚えているか。 それから、こないだの夜のことを。 そういえば、ばったり エンジや数達と遭遇した時には 私がかかしと関係あることを知っていた。 それは明らかに私を認識していたってことだ ちょっと今度は 自分の状態を思い出した。 店を出て日の光を見た時、 地下に入った時、目が眩んだ。 吐き気もしていた。 変にすねていた。 よく考えると・・・その他はあまり思い出せない エンジが私に 話しかけてくれた事と 遠くに見える、かかしの 楽しそうな横顔。 ほぼそれだけで、 何となく、思い出してきたのは かかしから一生離れない 耳元にそう声が聞こえて、 今自分が必死に 思い出そうとしていた 言葉と一致していて、 唖然とした。 一瞬にして静かになる。 エンジはちょっと 間をもたせてから再び言った 「そう言ってた ずっと側にいたい、って 俺に、言われてもって思った」 やんちゃ坊主みたいにはにかんで ベッドにゴロゴロする音が聞こえる 私は動揺して声が出なかった。 そんなこと、今まで全く覚えてなかった。 まさかとは思ったけど 記憶がないのは、 エンジじゃなくて私の方 小悪魔か天邪鬼のように 目を輝かせてそうな彼がさらに 整理のつかない頭の私に 追い討ちをかけてきたので もう観念した。 4月のことも、 エンジはちゃんと覚えていた。 彼は人並み外れて酒に強いらしい。 そういえばかかしも 数も、酔ってふらついた所を見たことがなくて この3人のループに囚われたように 頭がグルグルして止まない。 どうしても電話して 聞きたかったのは こないだの一連の「事故」のような、 抱擁についてだった あれから丸一日寝て、 シラフに戻ると うる覚えだけど感触だけは しっかり残っていて、 それが私にひどく後悔させていた。 自分からしたことだったし なかったことには できないけど、 エンジがもし覚えていたら 彼の気まぐれだと分かっていても はっきり否定しておきたかった。 しかし彼は私のかかしに対する 気持ちを知っていて、それでもなお 電話をしてきた。 それから会いに来たり、 酔った私を受け入れたり。 何故なのか分からなかった 私に執着しているとか そんな甘めかしい理由では絶対ない。 彼はいつでも冷静で 離れることも側にいることも 特別いとわなかった エンジは飄々とした様子で ただ、我慢できる理由が知りたかったんだよね とだけ言った。 我慢? 我慢? 何度も考えたけど、 ついに意味が分からなかった。 それは何に対してか、 誰のことか説明もなく謎めいていた 困惑する私の様子にお構いなく、 おもちゃ箱が溢れ出したように 煙を吐きながら、 思い出し笑いして嬉しそうに言う。 「そう、理由は分かったんだけど あの時見たらKARTの前に居たんだよね 俺、思わず抱いて隠しちゃったもん。」 誰が、居たと言うんだろう。 そのイタズラな言い方で段々と分かって、 あまりにダイレクトに刺さる事実に愕然とした。 そんな近くに居たなんて。 顔は見られてないにしろ、 私にとってそれは 絶望的な環境を感じさせた。 心が激しい罪悪で苛まれる。 取り合いなら、俺は喧嘩してみても いいと思ったんだけど、 そっちはかかしに見られるのは 絶対嫌だろって思ったから 心が暗く沈むより先に 柔らかく触れるがごとく 言い放つ声が耳の奥に届くと、 エンジに文句を言う気など 到底起きなかった。 いつでもこうして波が引くように 心をさらって洗っていく。 彼には一生、逆らえそうにない 完全なる脱力感を持って、 起こした事を謝り、 別れを告げて電話を切ることになった。 何だか分からないけど、 心が清々してるような 逆に、自分の愚かさに落ちていくような いつかのエンジとの会話で感じたのと同じ えもいわれない気持ちがしていた。 正午のサイレンが遠くから聞こえた つづく もどる